ログイン私の手の中にあるのは、具が少しだけはみ出した、明らかに小さい方だった。 透さんの左手には、皮がたっぷりと残り、重量感のある大きい方が握られている。 透さんは自分の手の中の断面と、私の手の中の断面を、交互に見比べた。 そして、考えるよりも先に、反射的な動作で、自分の手にある大きい方を私の方へ突き出してきた。「こちらを」「え?」「君の方が小さい。取り替えるべきだ」 彼の瞳は真剣そのものだった。 迷いのない動きだった。「半分に割る約束でしたよね」 私は自分の手にある小さい方を、彼の前に掲げてみせた。「どう見ても、これは半分ではありません」「……あぁ」 透さんの顔に、目に見えて焦りの色が浮かんだ。「すまない。左手だけだとうまく力が入らなかった。次は、もう少し正確に割る」「そこまで正確じゃなくて大丈夫です」「だが、不公平だ」「怒られると思いました?」 私が不意に尋ねると、透さんの唇が微かに引き結ばれた。 病室で、均等でなければ私に怒られるかもしれないと、真顔で心配していた人だ。「……君は、適当なことを嫌う」「怒るところを少し間違えています」 私は笑いを噛み殺しながら、彼の手の中にある大きい方の肉まんをじっと見た。「取り替えませんよ。私が自分で引いたんですから。透さんは、それを食べてください」 透さんはまだ納得がいかない様子で自分の手の中の肉まんを見つめていたが、私が先に小さい方を口に運んだのを見て、ようやく諦めたように左手を顔に近づけた。 はふ、と皮を噛みちぎる。 熱い餡が舌を焼き、濃い肉の旨味と玉ねぎの甘さが一気に口の中に広がった。 湯気が鼻の頭を撫でていき、冷え切っていた頬の皮膚が、内側からじんわりと温まっていくのがわかる。 熱さと、少しの甘さ。「……おいしい」 ただ、それだけが口からこぼれた。 飾らない、ありふれた
大通りに出ると、車の排気ガスと、冷たいアスファルトの匂いが混ざり合った風が頬を打った。 交差点の角に、見慣れた看板が光っている。 自動ドアの前に立つと、ウィーンという軽い電子音とともに、人工的な暖気と、おでんの出汁の匂い、そして微かな揚げ物の油の匂いが押し寄せてきた。 完璧に空調が整い、防虫剤と清潔なリネンの匂いが漂っていた天野の本邸とは、まるで違う空気だった。 透さんは自動ドアの敷居を跨ぐ時、まるで未知の領域に踏み込むかのように、少しだけ肩を強張らせた。 普段の隙のないスーツ姿ではなく、今日はシンプルなニットの上にコートを羽織っているだけのラフな格好だというのに、彼の周囲だけ、空気が数度下がっているような錯覚を覚える。 店内に響く陽気なBGMが、彼の硬い表情とちぐはぐで、なんだかおかしかった。 私たちはレジ横の保温ケースの前に立った。 曇ったガラスの向こうに、丸みを帯びた白い塊がいくつも並んでいる。 私はバッグを足元に置き、財布を取り出そうとしたが、透さんが無言で一歩前に出た。 彼はガラスケースの中を、まるで企業の買収案件の資料でも読み込むかのように、真剣な眼差しで凝視し始めた。「……種類が多いな」 低い呟きが落ちた。「肉まんだけで、こんなにあるのか」「季節によって変わるんです。どれにしますか?」「君の希望に合わせる。……どれが普通なんだ」 店員がレジの奥から不思議そうな顔でこちらを見ている。 私はこみ上げてくる笑いを必死に腹の底へ押し込んだ。「一番普通のでいいです」「だから、その普通はどれだ」 透さんが真顔で私を振り返る。「透さん」「なんだ」「一番右上の、百五十円の肉まんです」 私が指を差すと、透さんはようやく納得したように頷き、店員に向かって「一番右上のものを一つ」と告げた。 手慣れない手つきで左手だけで財布から小銭を取り出し、会計を済ませる。 渡された小さな白い紙袋からは、じんわりとした熱
自動扉がスライドする低いモーター音が響き、淀んだ暖気が背後から押し出される。 一歩踏み出した途端、肺の奥を刺すような冬の冷たい外気が、コートの襟元から容赦なく滑り込んできた。 アルコール消毒液と、アイロンの当てられたシーツの匂いが、鼻腔から急速に薄れていく。 私は首元のマフラーを少しだけ引き上げ、冷え切った空気を深く吸い込んだ。「……荷物」 隣で、低く、少し掠れた声がした。 振り返るより早く、私の右手に提げていたボストンバッグの持ち手に、大きな手が伸びてきた。 長くて骨ばった、見慣れた指先。 しかし、その手は彼の左手だった。 視線を上げると、透さんがわずかに眉を寄せたまま、私からバッグを奪おうとしていた。 濃紺のウールコートの下、彼の右腕はまだ厚いガーゼと包帯で覆われ、胸の前に固定されている。火災の熱が皮膚を焼き切った生々しい痕は、まだ治癒の途中だ。 自分の身体が万全ではないのに、彼の中の何かが、反射的に私の重さを肩代わりしようとしている。「だめです」 私は持ち手にかかった彼の左手に、自分の左手を重ねて止めた。 冷たい外気に晒されていたはずなのに、彼の指先からは微かな熱が伝わってくる。「重くありませんから。着替えが数枚入っているだけです」「だが、君も退院したばかりだろう」「透さんこそ、その腕でバランスを崩したらどうするんですか。まだ無理をしていい時期ではないと、お医者様も仰っていたはずです」 私の言葉に、透さんはかすかに息を詰まらせた。 彼は自分の右腕に視線を落とし、それから、私がきつく握りしめているバッグの持ち手を見る。 透さんは重ねられた私の手をしばらく見ていた。やがて、ゆっくりと指先の力を抜いた。「……わかった」 左手が、名残惜しそうにバッグの持ち手から離れる。 私は彼の手が完全に引くのを待ってから、バッグを提げ直した。「本当に行くのか」 病院のロータリーへ向かうタイル張りの道を歩き出しながら、透さんが
私は彼の手に握られた自分の手を、さらに強く握り返した。「ええ。私たちは、一緒に生きていくのよ。このうるさくて、痛い世界で」 私はコーヒーカップを持ち上げ、残っていた温かい液体を喉へ流し込んだ。 一時間後。 私たちは、基金の設立準備のための会合へ向かうべく、マンションの玄関に立っていた。 私は春物の薄手のトレンチコートを羽織り、ハンドバッグの留め金を確認する。バッグの奥底には、あの革張りのメモ帳が、今も私の記録の相棒としてひっそり収まっている。 透が、重い鉄製のドアのノブを押し下げた。 カチャリとドアが開き、外の世界への道が開かれる。 吹き込んできたのは、冬の凍てつくような寒気ではなく、湿り気を帯びた、柔らかい春の風だった。 微かに、どこかで咲いている沈丁花の甘い香りと、温められた土の匂いが混じっている。 玄関脇の小さな棚には、昨日買ってきたばかりの素焼きの鉢が置かれていた。 白灰蘭ではない。花屋の店先で、名前も知らずに選んだ、小さな黄色い花だった。茎は少し曲がり、葉の端には虫に食われたような穴が一つ空いている。天野本邸の温室なら、きっとすぐに捨てられていただろう。 でも、その不揃いな姿が、私は気に入っていた。 透が水をやりすぎないようにと、昨日から何度も鉢の土を指で確かめているのを知っている。完璧に管理するためではなく、枯らさないために見ている。その違いが、今の彼にはちゃんとわかっている。「今朝は、もう水をあげた?」「あげていない。昨日、君に『構いすぎると根腐れします』と言われたから」「よく覚えていました」「忘れたら、鉢より先に僕が叱られる」 真顔でそう言うから、私は思わず笑ってしまった。天野家の次期当主としてあれほど恐れられていた人が、今は小さな鉢植えの水やりで私の顔色を見ている。 私は鉢の横に置いた小さなメモカードに、日付と一言だけを書いた。『今日も、咲いている』 報告書でも、告発文でもない。 あの温室の、白灰蘭のむせ返るような匂いとは違う。生きた植物たちが、それぞれのペースで太陽に向かって呼吸
「透さん」 「ん? また赤ペンか」 「今日は青ペンです」 「色の問題ではない気がする」 「では、心構えの問題ですね」 透はコーヒーカップを持ったまま、妙にきちんと背筋を伸ばした。 「君のペンに緊張する日が来るとは思わなかった」 「光栄です」 「褒めてはいない」 「でも、悪くもないでしょう」 返事に困ったように黙る彼が少し可愛くて、私は紙面に視線を戻しながら笑いを噛み殺した。 「ここの『家庭環境に恵まれない』という表現、少し変えましょう」 私は該当箇所をペン先で二度叩いた。 「これだと、まるで家庭の『運』だけが問題みたいに読めてしまうわ。私たちが支援したいのは、家で傷ついても助けを求められず、制度にもつながれていない子どもたちよ」 「なるほど。『恵まれない』だと、最初から線を引いてしまうな」 透がコーヒーカップを片手に、私の背後から覗き込んだ。 彼のシトラスの香りが、ほのかに鼻をくすぐる。 「なら、『社会的養護の枠組みから孤立した児童に対し』とするのはどうだろうか」 「ええ。対象と、制度からこぼれた理由を、同じ段落に置きましょう。あとで一文だけ抜かれても、元へ戻れるように」 私は透が提案した文言を、空いた余白にカリッ、カリッと書き込んでいく。 私は言葉を整えるこの技術を、誰かを切り捨てるためではなく、声を持てない子どもたちが、いなかったことにされないように使っている。 ペン先が紙を走る音を聞きながら、私は胸に深く、確かな熱が広がるのを感じていた。 透は私の横顔をじっと見つめていた。 「温室でも、その顔で僕の襟を掴んだ」 透は、私のペン先を見たまま続けた。 「今度は紙で済んでいる。あの時は君の指が僕の襟に食い込んでいた。……紙で済ませてほしいなら、僕も勝手に君の結論まで書かないことだな。君が怒る前に聞く。そういうことだろう」 私はボールペンを置き、彼を見上げた。 「よく分かっていますね。紙で済ませてほしいなら、勝手に一人で結論を出さないこと。次は青ペンではなく、何度でも襟を掴み
透が、フライパンからスクランブルエッグを皿に移しながら答える。 皿の上に落ちた卵は、形だけならかなり自由だった。 「……これは、スクランブルエッグで合っていますか」 「合っている。たぶん」 「たぶん」 「料理本の写真とは、少し方向性が違うだけだ」 その言い訳があまりにも真面目だったので、私はフォークを持ったまま笑ってしまった。 私たちが今、全部を失った後に手元に残されたわずかな個人資産と、黒瀬たち元使用人らの協力を得て立ち上げようとしているもの。 それが、この児童支援基金だった。 テーブルの端には、何通もの封筒が重ねられている。 一つは、黒瀬から届いたものだ。彼は今、捜査に全面協力しながら、司法取引に近い形で証言を続けている。手紙には、硬く整いすぎた字でこうあった。 『私は罰を免れたいとは思いません。今後は記録を削る側ではなく、残す側として働きたいと願っています』 もう一つは、千尋からのものだった。 彼女は天野家を離れ、遠方の小さなホテルで住み込みの仕事を始めたらしい。便箋の端には、慣れない手つきで描かれた小さな白い花があった。 『私はまだ怖いです。でも、怖いままでも、言葉にしていいのだと、お嬢様に教えていただきました』 それから、佐伯から届いたメモには、相変わらず乱暴な字で、こう書かれていた。 『基金の記者発表をやるなら、余計な美談にはするな。あんたが嫌うだろうからな。必要なら、言葉の前と後ろを勝手に削られないよう見張ってやる』 私はその文字を見て、口元だけで笑った。 佳乃からは、返事のいらない葉書が届いていた。 遠方の小さな町の消印。宛名の字は少し震えていたけれど、本文は丁寧だった。 『帳簿を渡したことを、私は後悔していません。あなたが私を母と呼べる日が来なくても構いません。ただ、あなたが自分の足で歩いていることを、遠くから祈っています』 私はその葉書を、基金の書類と一緒に保管している。 許しも、和解も、急がなくていい。 泣き声を「うるさい」と切り捨てられ、抱き上げられることもなく、助けを呼ぶ言葉さ
「会社としては、橘さん個人の意図を問題にしているわけではありません」 人事担当の女は、柔らかな声で、けれど一切こちらに踏み込まない距離を保ったまま言った。「ただ、現時点では関係各所に大きな混乱が生じています。しばらくは出社を控えていただく可能性も含め、会社として適切な対応を検討します」 適切な対応。 その言葉の中に、橘日和の弁明が入る余地は、どこにもなかった。 午後。 オフィスには、目に見えない透明な壁が立っていた。 斜め向かいの紗耶の席は、空席だった。『ショックで過呼吸気味になって、早退したらしいよ』『そりゃそうだよね。信じてた同期に、あんな風に責任押し付けられそうになっ
カチリ、と。 万年筆のキャップが閉まる硬い金属音が、耳の奥で反響を繰り返していた。 水科凛花(みずしな・りんか)としての呼吸を整えようと、ゆっくりと肺に空気を送り込む。 だが、冷たく管理された天野家の執務室の空気は、吸い込めば吸い込むほど、別の記憶の匂いを喉の奥へ引きずり出してきた。 古いコピー機が吐き出す排熱。 トナーの焦げた匂い。 そして、誰にも言葉が届かなくなった、あの会議室の後の、乾ききったオフィスの空気。 万年筆をデスクに置いても、指先の震えは止まらなかった。 頭に残った橘日和(たちばな・ひより)としての記憶が、終わりのない悪夢のように、再び生々しい輪郭を結び始め
正しい時系列を、前後関係を残そうとしただけなのに。 視線を泳がせ、斜め向かいに座る紗耶を見た。 彼女なら、わかってくれる。 あのチャットのやり取りの全貌を、彼女は知っているはずだ。「紗耶……」 すがるような思いで、微かに声を絞り出す。 だが。 ゆっくりと顔を上げた紗耶の瞳には、同情も、申し訳なさもなかった。 あるのは、怯えた小動物のような震え。「私……知りません」 震える声が、会議室の静寂に落ちた。「日和さんが……橘さんが、勝手にやったことです。私は、ただ、確認をお願いしただけで……こんな隠蔽工作みたいなこと、知りませんでした」 頭の中が白くなる。 紗耶の目から、
◇ カチャ、ターン。 エンターキーを叩く、乾燥したプラスチックの音。 古いコピー機が吐き出す排熱と、トナーの焦げたような微かな匂い。 喉の奥には、紙コップの底で冷え切った、安物のインスタントコーヒーの酸味がこびりついている。 モニターの青白い光が、顔の輪郭を冷たく照らし出していた。 橘日和。二十九歳。 中堅企業の広報担当。それが、数年前まで自分に割り当てられていた名前と肩書きだった。 画面に並ぶのは、無数のタイムスタンプと、社内チャットのログ。 『限定公開前の顧客リスト、誤送信されてるっぽいんですけど』 『え、マジ?』 『やばい、すぐ上に上げないと』